自責と自罰の日々を抜けたようです。症状が重かった日々の振り返り。
過去のエピソードの一つ一つを思い出しては「あんなことをやらかした自分は生きる意味もない。早くしにたい」と繰り返す日々があった
自責感や自罰感は発病の頃からのお付き合い。何にしても自分を責め、生きている価値がないと思い、しんだほうがいいと真剣に考えしぬ方法を探し、でもしにきれるものでもなく、なんでこんな自分が生きているのか、とまた激しく自分を責め始める。
「こんな身体で生きていたくない」
毎日頭を抱え、目を覆っていた。
自責や自罰のトリガーは、繰り返し湧いて出てくる嫌な思い出の数々。
思い出がなければいいのに。記憶をなくせば幸せになれるのに。先生、記憶をなくす治療ってありませんか?
そう思い悩みもだえる日々に、一冊の読書。
トラウマケアの章だった。
記憶をつかさどる「海馬」の機能としてエピソード記憶と感情記憶とが「要(よう)」で結び付けられている。この「要」を消すことでエピソード記憶と感情記憶がバラバラにし、トラウマ体験は消去しうると。
「思い出は消せるんだ」
「まだ研究途上とはいえ、いつかは嫌な思い出を消すこともできるんだ」
そう思い至って、今までの恐怖の記憶の輪郭がぼやけた。薄皮一枚向こうに行ったように感じた。
こう「思い出が消せる」と知ったことで、こころが一つ強くなった。
幾度となく押し寄せた過去の思い出。記憶の中の苦しむ自分はそのまま今の自分となり、数年前、数十年前の記憶そのものが自分を刺してきた。
でも、今となっては「そういうこともあったな」と線を引くことができた
これが自責感・自罰感を克服した第一歩だったように思います。
そして、自分にはどうしようもない事象があると認識し「そんなんどーにもできませんて」と自分で抱え込む作業を止めました。
「考えこみすぎても良くないよ」と、鬱に沈む私に健常な人が幾度となく掛けてくれたことばがあります。今になって分かった。それ、そういうことやったんかい。
健常メンタルの人はナチュラルに「それ私のせいやないもん」と跳ね返すことができるんですね、私にはその能力が備わっておりませんで、あれこれ苦しんで悩んでやっとたどり着きました。
辿り着いてやっと、自責と自罰の嵐を過去にしたんだと気づきました。