ほぼ黒ワンピース生活|双極性障害Ⅱ型の治療ログ

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S先生の思い出

 産後うつかと思いきや双極性障害(Ⅱ型)でした。というわけで治療開始してもうだいぶ経ちました。ふと思い出した、S先生のこと。

 

病状経過表を作ってます。

bidi-tke.hatenablog.com

 

これがまた躁鬱の周期把握にも役立つし、人生史にもなるし、障害年金受給申請にあたっての病歴申告書にも役立つものになっています。

 

中には新卒入社した特許事務所の思い出が含まれております。この特許事務所は、軽躁状態にあるときに入社し、以後だんだんと鬱状態に落ちていき、結果1年勤めることが出来ず退職しました。

そこでお世話になったのが所長で、かつ弁理士のS先生。採用責任者でもあり、雇用主でもあり、素晴らしい方でした。その方の思い出をつづります。

 

前述通り、当時は双極性障害という病識がない上「鬱ですね」と誤診されていた時期なので気分の変動が激しかったです。調子の良いときは軽躁状態であるから、周囲には「元気な子だね」程度の認識しかなく、エネルギー切れを起こして鬱に落ちても「少し休めば元気になるでしょ」「気合入れてね」と励まされ、なお辛いものでした。当時の主治医に言われるまま「うつ病」の治療をしても良くならないだけ。更には、新卒で入ったのは私だけで、相談できる相手もおらず、一人ため込んで激鬱状態に陥りました。

思えばあのときは「希死念慮」の出現が強く、仕事用のパソコンでも「死にたい」「死に方」と検索する始末でした。その訴えを当時の主治医にしても「しにたいくらい辛いんでしょ?仕事辞めたら」と雑な診断書が返ってくるのみでした。

結局、その雑な診断書を提出して退職願を出し、退職することとなったのでした。

 

退職する運びとなり、鬱で動かない頭の中は「無資格で何のとりえもない自分を雇い入れてくれたのに、私はなんて罪深いことを」とS先生に申し訳ないばかり。ぐるぐる思考に巻き取られそうになる毎日でした。退職日を前に面談があり、吉祥寺のルノアールにS先生と部署の先輩とが集まりました。

 

私は何も考えられない頭で「申し訳ありません。お役に立てず申し訳ないです。しにたいです」とただ謝るだけで、S先生は「分かった。少し休んでください。どうか元気で。」と言葉少なにルノアールを後にされました。

恩知らずが、役立たずが、と罵られるばかりだろうと怯えながら出席した面談でしたが、穏やかに終わるとは思わず、しかも労わられ、かつ健康を祈っていただけた。

肩の力みが取れたものです。

 

残った先輩方とで少し話し、「S先生は、仲の良かった方を躁鬱病で亡くされているそうです。だから精神的な病に苦しんでいる人に理解があるんだろうね」という先輩が語っていました。躁鬱病、つまり双極性障害です。

 

「彼は眠らずエネルギッシュで覇気に溢れ、短歌を詠んでは寄越してきた。しかし、一転して鬱になり、何度かそれを繰り返して彼はしんでしまった。もっと理解してあげられたなら、彼は今も元気だっただろうか」とS先生が寂し気に語っていたと聞きました。

 

その時は躁鬱病か、どんな病なのだろう、とぼんやり考えるだけで、あとは何もせず「うつ病」の治療のため休みました。

 

数年経ち、自分の「うつ病」は「双極性障害」であると分かり、今になって躁鬱病、つまり双極性障害でご友人を亡くされたS先生のお心が分かったように思います。

こころの病を負う人にもっと寄り添えたならば、大事な人を失わずに済んだかもしれない、その後悔がS先生の優しさを形作る一つだったのでしょう。

私自身もS先生のお心に救われ、希死念慮にまとわりつかれる日々をやり過ごすことができました。

 

以後いくつか勤め先を変えたものですが、最初にお世話になった勤め先への感謝はそのまま残るものです。いつか私もS先生のように資格を得て、たくさんの人たちとまた仕事が出来たら。そう思いながら今に至ります。

 

数年前にS先生の訃報を知りました。

ああ、結局また、お礼も言えないままだった。

 

救われたのに、救われたことに気も付かず、救われたことに気づいてなお、直接お礼も言えず、恩知らずが、と自分を責める気持ちが沸いてきます。しかし、S先生に救われた命をまた自分で傷つけるのも不毛なことでしょう。今はただ感謝の念を天に向けるだけです。

 

S先生、ありがとうございました。